教会からのお知らせ
罪人のかしら テモテへの手紙1第一章 (月報『菊名』No.63より)
テモテへの手紙はテトスへの手紙と共に「牧会書簡」と呼ばれています。牧会書簡と呼ばれる理由は、これらの手紙が牧会者であった「テモテ」と「テトス」に宛てられた手紙であり、教会での指導や牧会的配慮について書かれているからであります。「牧会」という言葉も、もともとは羊飼いの比喩から生まれた表現で、教会をどのように教え、導くのかということについての表現です。
いったいなぜパウロはテモテにこの手紙を書き送ったのでしょうか。「あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい」と書いています。このときテモテはエフェソ教会の牧会をしていたのですが、おそらくこの「ある人々」の問題やら何やらでエフェソ教会を辞めようと思っていたのではないでしょうか。また年若いというので軽んじられてもいました。そんなテモテを励ますためにパウロはこれを書き送ったのです。そしてただ励ますというだけではなく、牧会者としてどうあるべきなのかをテモテに示すためでもありました。
そして警戒すべきある教えや律法とは何かを教えたうえで、パウロはなぜ自分が福音のために働くようになったのかを書いています。それはキリストがこの務めにつかせてくださったからだ。それではなぜキリストはこの務めにつかせたのでしょうか。それはパウロが忠実な者と認めて下さったからだ。これがパウロの信仰でした。自分がやりたいからやっているのでもなく、人格的能力が優れていたから任じられたのでもありません。ただキリストが彼を認め、任じて下さったからでした。このことはテモテをどんなに励ましたことでしょうか。パウロも弱さを抱えていました。しかし彼は自分の力がどこから来るのかをよく知っていました。そしてその方によってパウロは自分の務めを果たしていたのです。
パウロは、自分がかつてどのような者であったかを述べ、その自分が救われたのは神の恵み以外の何ものでもないと明らかにしています。自分の過去を見るとき、いや現在もなお自分は「罪人の中で最たる者」「罪人のかしら」だと言っています。自分ほど罪深い人間はないと思っているのです。なぜそのことをパウロはテモテに告げたのでしょうか。それはテモテに神の恵みにしっかりと目を向けてほしかったからです。テモテは自分で何とかしようと努力していたのでしょう。自分のことだけを見ていたのです。そうではなく、神を見つめることが大事なのです。このような、罪人のかしらであるようなダメな自分を救って下さった神を見つめるとき、私たちは励まされ、力付けられ、神をほめたたえることができるのです。
愛澤 豊重
(菊名 2021年1月号 No.63掲載)