教会からのお知らせ

支配の問題 テトスへの手紙第三章 (月報『菊名』No.62より)

「支配者や権威者に服し、これに従い」と書かれ、この世の権威者を認めて、その権威に服従し、善い業に進むようにと勧められています。パウロはロマ書一三章でも上に立つ権威に従うべきですと語っています。そのように考えるのには二つの理由があると教えられました。一つには終末が近いと考えたからだと言います。確かにこの世の支配者の権威は終末までのもので、やがては滅んでいくのだからだと考えたというのです。もう一つは、二章で「敵対者は、私たちについて何の悪口を言うことが出来ず」「この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように」と言っているように、信仰とあまり関係のないことでキリスト教がそしられることがないようにという思いからだとしています。敵対者に悪口を言わせることで人をつまずかせては、福音を広めることにならないからです。権威にいたずらに逆らって、キリスト教を誤解させ、救いに至る道を閉ざさせてはならないからです。そういう意味でパウロはこの世の支配者の権威に服しなさいと言っていたのではなかろうか。

その思いは分かるとしても、しかし、この世の支配者や権力者が持っている悪に対する洞察力を欠いていたと言わざるを得ない点であります。この世の支配者や権威が即悪ということではありませんが、それが悪魔化する事態は歴史的に何度も指摘することが出来ます。それに対しては、イエスが十字架において私たちに示して下さった愛という救いの基準に照らして考えることが必要でしょう。聖書全体が私たちに何を示しているのかとの判断が欠かせません。

昔から信者がどうしても従うことが出来ない命令が三つあると言われてきました。その①がキリスト・イエスを否定せよ、というものです。その②は偶像礼拝の強制です。その③は福音伝道の禁止です。これだけはたとい誰の命令であっても従うことは出来ません。

しかし現在、同様の問題が世界中で起こっています。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて集会が禁止されることによって教会の礼拝が行えなくなったことです。日本では「特措法」による「外出自粛要請」がありました。しかし私たち自由教会の根底にあるのは「礼拝の自由」です。何の制約も受けずに自発的に神に従順であるという自由です。従って国家の命令であろうとも行政の制約であろうとも私たちはそれに従うことは出来ないのです。しかし同時に、愛に生きる共同体として、役員会が礼拝の形をどのようにするかを判断しなければならないのです。自らが感染の発生源とならないためにも感染防止の対策を出来る限り取りつつ、共に礼拝を守る方法を考えなければならないのです。

 

愛澤 豊重

(菊名 2020年12月号  No.62掲載)