教会からのお知らせ

愛する兄弟 フィレモンへの手紙 (月報『菊名』No.58より)

フィレモンへの手紙はパウロからフィレモンに宛てて書かれた手紙です。わずか二五節だけのこの手紙はパウロの手紙の中でも一番短いもので、しかも、他の手紙のように教会の問題に指示を与えるものではなく、きわめて個人的な内容の手紙です。それはパウロのもとにいる逃亡奴隷オネシモを奴隷の主人であるフィレモンに送り返すにあたって、オネシモの助命を願っている手紙です。

このような手紙がなぜ新約聖書という正典に加えられたのでしょうか。たしかにパウロが直筆で書いた手紙です。しかしそれ以上に教会内では、奴隷の問題は宣教の課題でした。教会内には多くの奴隷も加わっておりました。パウロは奴隷制度の廃止ということを正面から取り上げてはいません。現実の社会の状況はこうだと受け止めているのでしょうか。しかしパウロはガラテヤ書三:二七で「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と言っています。

パウロは「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです」と切り出しました。オネシモはフィレモンの家から逃亡した奴隷でした。そのオネシモがどのようにしてかは分かりませんが、逃亡先のローマでパウロと出会い、信仰に導かれたのです。オネシモはキリストにあって新しく生まれ変わりました。以前は「役に立たない者」でしたが「役立つ者」になったと書かれている通りです。それで本当は自分のもとで仕えてもらいたいというのがパウロの思いでしたが、奴隷の主人の承諾なくは出来ないという考えから送り返すことにしたのです。当時の事情からすれば逃亡奴隷には厳罰が待っています。処刑さえも行われていました。そこでフィレモンに、オネシモを奴隷ではなく奴隷以上の者、愛する兄弟として迎えてくださいと願うのです。

現代社会は混乱に満ちています。四年が経った相模原の津久井やまゆり園殺傷事件の加害者植松死刑囚は「障碍者は生きている意味はない、安楽死させた方が良い」との考えをいまだに持っていると伝えられています。人間とは何か、差別や偏見に対しての確かな自覚を社会が失っている表れではないでしょうか。コロナでの差別現象も同様です。自分を守るためなら他人を従わせよう、さもなければ排除してしまおう。そのような風潮が安易に社会で行われています。

フィレモンへの手紙は本気で人を救おうというパウロの信仰の方向が語られています。

 

愛澤 豊重

(菊名 2020年8月号  No.58掲載)