教会からのお知らせ
イエスを見つめながら ヘブライ人への手紙第一二章 (月報『菊名』No.56より)
「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉は私の愛唱句です。
よく似た言葉に「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。」という徳川家康の遺訓と言われている言葉があります。後世の創作だと言われていますが、家康の生涯と精神を表す人生訓として知られています。人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。辛抱強く努力を積み重ねることが肝要だというものです。これはこれで素晴らしい言葉と言えるでしょう。
では聖書は何を告げているのでしょうか。
「忍耐強く走り抜こうではありませんか」と私に走る抜くことを呼びかけているのです。何を走り抜くか、それは「自分に定められている競争」です。それは信仰生活のことだと言えましょう。しかもそれは自分に定められている競争です。人と同じ道を走っているのではない。人と比べられるような道でもない。神が自分に定めてくれた信仰の生涯なのです。それを走り抜く力が信仰でしょう。
その際に注意しなければならない点、それは「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」ということです。重荷と訳されている言葉の元の意味は、重要なものとか威厳というものです。この世では重視されているものが信仰の競争においては重荷となって、足手まといになるというのです。そして罪です。罪とは、私たちを神様から引き離し、私たちの信仰を萎えさせる力です。教会生活の中でも他者との関係において躓きを覚えるということがあるでしょう。そのときにはこの罪の力に支配されているのです。そのような中で私たちは失望し、走り続ける気力を失ってしまうからです。そのような中で私たちに必要なことは忍耐です。聖書は忍耐強く走り抜こうと呼びかけているのです。
そしてこれを成し遂げていく方法が「イエスを見つめる」ことです。イエスこそこの競争のゴールなのです。そのゴールを見続けないで、後ろを見ていたら後れを取ってしまいます。周りばかり見ていたら焦ってペースを乱されてしまいます。優秀なランナーなら、ひたすらゴールを目指して一身に走っていきます。そのゴールはイエス・キリストです。しかもイエスはゴールばかりでなくスタートでもあるのです。主イエスこそ、私に救いを与えて下さった方であり、それを完成して下さる方なのです。
愛澤 豊重
(菊名 2020年6月号 No.56掲載)