教会からのお知らせ

信仰を抱いて ヘブライ人への手紙第一一章 (月報『菊名』No.55より)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」という言葉は教会の召天者記念日によく読まれる聖句です。「この人たち」というのは、この一一章では特にアブラハム、イサク、ヤコブの族長たち、そしてアブラハムの妻サラとモーセ等の人たちが記されています。その人たちの名前を記すの当たって「信仰によって」という言葉がその生涯を示す言葉として繰り返し語られています。

彼ら信仰によって生きた人々は、生きているときには、神はその約束を実現してくださるということを彼らは信じていたでしょう。確かに彼らは生きている間に、ある意味ではその約束の実現を受け止めていました。たとえば年老いたアブラハムは九九歳のときに約束されていた長子イサクの誕生をみることができました。

しかし彼ら、神を信じる者が待ち望んでいたもの、それは地上的な過ぎゆくものではなく、神ご自身の命にあずかること、神の都に受け入れられることでありました。そしてこの天にある都こそ、彼らが本当に帰るべき故郷だったのです。彼らはそれを望み見て、その命ある日々を生き抜いていたのです。

そのように考え、信じ、生きた彼らは、しかし夢想家のように現実離れした人というのでは決してありませんでした。創世記に記されている彼らの生涯は、地上のことにも明るい実際的な人であったことも示しています。いやむしろ、本当に向かうべき地をしっかり捉えていたからこそ、現実の目の前のことについて正しい判断と行動を行うことができたのだということができるでしょう。そしてそれは、この地上において神の約束を信じる者に共通する姿でありました。

もちろん、彼らが皆いつも完全無欠であったなどということではありません。多くの間違いや失敗がありました。旧約聖書を読んでみれば、なんでこんな人が聖書に書かれているのだろうと思うことが幾度も出てまいります。

彼らの人生が立派だから神に認められたなどとは聖書は言わないのです。それがたとい敗れ多い人生だったとしても、神が彼らを認められたのは、何度も繰り返して出てくる言葉「信仰によって」ということによってでありました。そしてその信仰が、彼らの地上の生の歩みを方向付けていたのでありました。その姿こそ「約束を望み見て」という姿であり、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」という一節の言葉に言い表されている姿です。

 

愛澤 豊重

(菊名 2020年5月号  No.55掲載)