教会からのお知らせ
永遠の贖い ヘブライ人への手紙第九章 (月報『菊名』No.53より)
モーセによってシナイ山で最初の契約がなされましたが、その際にも「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」として血が必要でした。それは、命を表す血を流すことなしには罪の赦しはあり得ないということからでした。しかし著者は、古い契約のもとでの犠牲の祭儀は完全なものではなく、天にあるものの写しに過ぎなかったと考えます。それですから大祭司は、毎年毎年繰り返し幕屋で犠牲をささげなければなりませんでした。
しかしイエス・キリストが、決定的ないけにえとして、十字架で血を流されたのです。最初の契約のもとでの犯された罪の贖いとして律法の要求が完全に満たされ、私たちに残されているのは永遠の財産を受け継ぐ約束だけなのです。
手紙の著者が、毎年繰り返して行われている犠牲と、イエス・キリストによるただ一度の犠牲を対比強調しているのには理由があります。それは救いの為には何か儀式や行為が必要だと考える人が宛先の教会の中にいたのでしょう。そのように救いの完成のためには何かもう一つ必要だという考えは常に起こりました。聖書の時代には、ユダヤ教的キリスト者がキリストの贖いに加えて律法を守ることが必要だと主張しました。中世の教会は、キリストの贖いに加えて人間の功績が必要だといいました。著者はこのような考えに対し、キリストの唯一回の贖いは決定的なものだとして、これらの考えを明確に否定しました。
また、救われた人間にしても、死の後には裁きがやって来るという考え方でした。終りの日の審判によって裁きが行われるというのは常識的な考えでした。確かに人間には必ず死が訪れます。しかし著者は言います。確かにイエス・キリストも普通の人間と同じようにただ一回死なれた。しかし、二度目に現れるときは「御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」と言っているのです。イエスの死において起こったことは、多くに人の罪を背負い、裁きをご自分の身に引き受けて下さったことだ。それは罪の力が敗北したということだ。それゆえイエスは、裁きを行なうためにではなく、御自分を待望している人たちに永遠の財産を受け継ぐこと、すなわち救いをもたらすために現れて下さるのです。彼を待望している兄弟姉妹を集めて、神の国である天の家に連れていく、そのためなのだと言っています。
御自分の血によって私たちを清めて下さったキリストが天の神の御前におられる。ですから私たちも神に近づくことができるのです。キリストの二度目の来臨の時まで、キリストを見つめ、共に歩み続けるようにと招いているのです。
愛澤 豊重
(菊名 2020年3月号 No.53掲載)