教会からのお知らせ
新しい契約 ヘブライ人への手紙第八章 (月報『菊名』No.52より)
七章では私たちに与えられた大祭司はメルキゼデクと同じような大祭司であると語られていました。八章では、その大祭司は神の右に座しておられ、天にある真実の聖所でその務めを行っておられると語り始めます。この大祭司であるイエス・キリストの務めは、この天的な性質にあるのですが、それにも増して優れているのは「更にまさった契約の仲介者になられたから」だと言っています。
仲介者というのは間に立つ者のことです。神と人との間に立ち、両者を和解させ、人を神に近づけることがお出来になるというのです。間に立つ者は、両者の立場を完全に理解し、両者を満足させなければなりません。それをイエスがお出来になるのは「更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約」に依っているからです。その契約はエレミヤによって予言された「新しい契約」なのだと言います。
この契約という考え方は聖書の基本的な考えの一つです。普通、契約と言えば当事者間の約束事で、一方がその条件に反した場合はその約束が無効になります。旧約聖書でも出エジプト後にシナイ山で結ばれたシナイ契約は、主がイスラエルの神になってイスラエルを守り導くという約束をし、イスラエルは主の民となって主の戒めを守るという約束です。後の預言者は、イスラエルの民がこの契約に忠実でなかった現実を非難し、神の裁きを告げています。
これに対し新約聖書は、この契約という言葉を表すのにディアテーケーという言葉を使いました。この言葉は普通は遺言を表す言葉です。新約聖書はなぜディアテーケーという語を用いたのでしょうか。それは神は契約当事者というような対等なものではないからです。聖書が契約という場合、主導権は神にあります。神が人に働きかけ、神との関係を規定します。人に出来ることは、この契約条件を変えることではなく、そのまま受け入れるか、退けるかのどちらかしかできません。これは遺言状と同じです。そこに示されているのは遺言者の一方的な意思です。相手はそれを受け入れるか否かです。従って「契約」という言葉は約束であっても、それはあくまで神の主導権に依るものであって、人間が変更する余地は全くありません。
そして古いシナイ契約は新しくイエス・キリストによってもたらされた契約によって破棄されたのです。その新しい契約はただ一方的な神の愛と慈しみを宣言しています。神は正義の神でありますが、その正義が愛によって包まれているのです。この新しい契約の上に、イエス・キリストは契約の仲介者として天で神に執り成してくださっているのです。
愛澤 豊重
(菊名 2020年2月号 No.52掲載)