教会からのお知らせ
新しい大祭司 ヘブライ人への手紙第七章 (月報『菊名』No.51より)
第七章はメルキゼデクという見慣れない名前が出てきます。このメルキゼデクという人物は旧約では創世記第四〇章と詩編一一〇篇、そして新約ではこのヘブライ人への手紙にしか出てきません。祭司はモーセが律法によって制度化されたものですが、創世記はアブラハムの時に既に祭司であった人がいたことが伝えられています。それが「天地の造り主、いと高き神の祭司」メルキゼデクなのです。
ヘブライ人への手紙の著者は主イエスのことを大祭司と呼んでいますが、大祭司ならば旧約の時代に何人もいたわけですから、他の大祭司と違った特別な大祭司だということを強調するために詩編一一〇篇四節の言葉と合わせて主イエスに付けて称号としたものです。
イスラエル民族の最高の地位にあったアブラハムを祝福したというのは、旧約の時代にあっては大変重要な出来事でした。本来ならば祝福を与えるのは族長のすることでした。その族長に祝福を与えることが出来る人物だった。そしてメルキゼデクは祭司を役割としたレビ族ではありません。レビ族はもっと後になって成り立った部族ですから。レビ族アロンの家系である大祭司という枠を超えた人物であったわけです。イエスはレビ族ではありません。通常では祭司になれません。しかし主イエスはメルキゼデクに等しい大祭司であるとイエスを捉えているのです。
なぜイエスをそのような大祭司として伝えたのでしょうか。旧約時代のイスラエル民族は人間の罪について非常に深い洞察を持っていました。そこで大祭司という職を設けることによって、その罪の贖いの業を為させたのです。具体的には動物の血によって人間の罪を贖うものでした。つまり、生命を献げることなしには到底罪の解決はあり得ないという、罪に関する深い理解をイスラエルは持っていたのです。それにもかかわらず、旧約の大祭司が為すことが出来たのは動物にいけにえを献げるというところまでで、それ以上のことはなし得ませんでした。
このようなイスラエル民族の罪の理解と、罪は贖われなくてはならないということとを十分に受け継ぎながら、これを完成した形でもって成し遂げた方が主イエス・キリストであると告げるのです。イエス・キリストの十字架の死と復活というのは、まさに旧約の大祭司が成し得なかったことを完全に成し遂げられたのだというのがヘブライ人への手紙の理解です。人間が為すべきこと、しかし成し得ないことを代わって、今やイエス・キリストが真の大祭司として罪の贖いを為して下さったのです。そのようにして人間が神の前に出る道が開かれたのです。神に近づくことが出来るのです。
愛澤 豊重
(菊名 2020年1月号 No.51掲載)