教会からのお知らせ
成熟を目指して ヘブライ人への手紙第六章 (月報『菊名』No.50より)
「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」という言葉が言われています。ところがその前には「基本的な教えを学び直すようなことをせず」と言われていました。この関係をどうとらえたら良いのでしょうか。
教会では洗礼を受ける前に必ず準備会をします。そこではキリスト教の基本的な事柄について一生懸命に学びます。「神とは何か」「人間とは何か」「救いとは何か」等々を学びます。ところが洗礼を受けて教会員になると、受洗教育のような機会は無くなります。教会員一人一人に自分で学ぶことが委ねられるわけで、ただ教会に集まって兄弟姉妹の交わりをしていればよいとは言えないのです。受洗後も、信仰者として信仰の学びがある程度体系的になされていく必要があることは言うまでもありません。
この手紙が「教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と言っているのは、洗礼によって神と向き合う自分というものを得た、だから、いつでも生ける神の御前に立って、自分自身を知らされ、新しく決断をすることが求められているからです。ただ漫然と教会員としての生活を送るのではなく、もっと積極的に、自分から自己訓練の機会を作っていこうとする姿勢が大事なのだろうと思います。
ただ「基本的な教えを学び直すようなことはせず」とはどういうことだろうかと考えてしまいます。神への信仰は、どのような時にでもしっかりと保たねばならないのに、この言葉は何なのだろうかと考えてしまいます。
確かに信仰を持っていなかった時期と比べれば、神に信頼をするという大きな飛躍を経験しました。そういう意味では受洗をする際の学びは重要な学びであることは疑いありません。しかしただ漫然と信じることだけでは、キリスト者の信仰としては不十分であると言わざるを得ないのです。神を信じると言うだけでは、他宗教の方でも一緒です。どういう神を信じるのか、キリストにおいて御自身を顕された神を信じるという内容が問われなければなりません。復活ということでもファリサイ派の人たちは信じていた訳で、それとはどう違うのか。永遠の審判ということでも、ユダヤ人も信じていたわけでしから、それとはどう違うのか。いつまでも漠然と神を信じている状態のままではだめで、そこから一歩前進をしなければならない。
そのように私たちが、それがどんなに少しずつではあっても自己訓練に励んでいるかぎり、成熟を目指して進んでいる生きた信仰ということが出来ます。その意味でこの言葉は温かく力強い私たちへの勧告の言葉なのです。
愛澤 豊重
(菊名 2019年12月号 No.50掲載)