教会からのお知らせ

永遠の救いの源 ヘブライ人への手紙第五章 (月報『菊名』No.49より)

大祭司の資格については、人を思いやることの出来る人間(一~三)であり、神によってその職務に任命され(五)なければなりません。その資格はキリストにおいても満たされなければならないものです。

七節には「肉において生きておられたとき」と言われています。それはイエスの人間としての誕生から十字架までの全生涯を表しており、その全生涯を、最後の一週間に集約して書かれているようです。「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとを献げ」というのは、まさにゲッセマネの園における祈りの場面を思い浮かべます。その姿は、たんにその時だけのことではなく、イエスの全生涯がそのようなものであったと言い表しているようです。福音書を読みますと、そこでは「この杯をわた
しから取りのけてください」とあるのです。ここでイエス・キリストは、死の運命から逃れさせてくださいと真剣に祈っています。

死の苦しみ、それは人間の人生における最大の苦しみです。死さえなければ、私たちの人生はもっと喜びに満ちたものであるだろうにと考えます。死さえなければ、というのが私たちの願いでもあります。人生には苦しみや悲しみが私たちを取り巻いています。そのなかでも、どうすることも出来ない限界として死はあります。

ところで、神の子でいますはずのイエスが、どうして死に対して不安に脅えたように神の救いを祈っているのでしょうか。神の子であるイエスは、死とは無縁のものではなかったでしょうか。ここでイエスは、あえて神の子であることを止められたかのように、徹底的に人間となられたのです。人間の持ってる限界、弱さ、醜さ、罪というものを徹底的にご自分のものとされ、引き受けられたのでした。あえて私たち人間の立場になられて、私たちに代わって祈っておられるのです。

このイエスの祈り、死を免れさせてくださいと言う祈りは聞かれたのでしょうか。

そうではありませんでした。しかし聖書は「聞き入れられました」と断言しているのです。ではどのようにして聞かれたのでしょうか。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と言います。これは、「御子であるにもかかわらず」というよりはむしろ「御子であられたからこそ」と理解しましょう。そこに神の子であられたことが出ているのです。神であるからこそ、徹底的に人間であられたのです。「メルキゼデクと同じような大祭司」とは、キリストの十字架と復活によって成就したゲッセマネの祈りの完成であります。イエス・キリストこそ永遠の救いの源なのです

 

愛澤 豊重

(菊名 2019年11月号  No.49掲載)