教会からのお知らせ
安息にあずかる ヘブライ人への手紙第四章 (月報『菊名』No.48より)
先の第三章では詩編九五篇の引用がなされていました。この第四章もそれを受けて最後の言葉である「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」という言葉の内容を新しく説明しています。この詩編の言葉は、イスラエルの民が主の言葉に反抗したために、約束の地カナンに入らせないと神の裁きが発せられたというものです。事実エジプトから解放された民は荒れ野を四〇年さまよい、カナンに入ることは許されませんでした。カナンに入ることが出来たのは、荒れ野の旅の途上で生まれたものだけだったのです。「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」との御言葉は実行されたのです。イスラエルの民に約束された乳と蜜の流れる地を与えるという約束は、彼らの不従順によって達成されませんでした。しかしそれはあくまでもイスラエルの側のこと、人間の側のことであって、神の側にあってはその約束は依然として生き続けているのだとヘブライ人への手紙の著者は考えるのです。だから一節に「神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに」と書くのです。
だから「わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされている」と言います。荒れ野のイスラエルが聞いていた神の言葉と、今日私たちが聞いている神の言葉とは全く同じものであり、両方とも福音として与えられているのだというのです。
それなのになぜイスラエルは恵みの福音に不従順だったのでしょうか。「信仰によって結びつかなかったためでした」と言います。確かに彼らは物理的には聞いたはずなのですが、しかしそれを、信仰を持って自分のこととして結び付けなかったのでした。
このことは私たちも同じ事情にあります。神の御言葉だと言っても特別な言葉があるわけではありません。聖書という本を読んでいるだけです。でも、その本を読んでいてある時、「これは私のことを言っている」と気付く時があります。「わたしはこの言葉で命が与えられた」という人もいます。その時に聖書の言葉が神の御言葉になったのです。神が私に語られたと、自分に結び付いたのです。
ヨシュアはイスラエルの残りの民を率いてカナンに入りました。神の約束の成就です。でもそれは神の安息への第一段階に過ぎなかったようです。「安息日の休みが神の民に残されているのです」と言われます。地上のカナンではなく、もっと確かな本当の安息、天のカナンに向かって努力をしようと私たちを励ましています。それこそ新約の民に課せられた務めであり、私たちに与えられている賜物なのです。
愛澤 豊重
(菊名 2019年10月号 No.48掲載)