教会からのお知らせ

天の召しに与って ヘブライ人への手紙第三章 (月報『菊名』No.47より)

昔々、私が修士論文を書いたときのテーマはカール・バルトの教会論でした。その趣旨は、教会が教会として存在し得るのは、一つの出来事として存在するのであり、信仰によって常に教会とならなければならないものである、ということでした。つまり、教会というのは、ここにある、あそこにあるというように個々に静的に存在しているものではなく、いつも、その時その時に新たに教会になっていく、そういう性質のものなのです。

二章での勧めを聞かされている人たちを一節で「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と言っています。これは地上の教会のことを言い表しています。教会というのはこの地上に存在して、人間によって構成され、他の団体と同じように組織されています。その上で、教会が他の団体と区別されるのは、地上にありながらも「天の召しにあずかっている」と言われる部分によってなのです。神によってそれぞれの場所から召され、集められた群れ、それが教会なのです。その意味で教会はこの世に属しつつ、天にも属している団体なのです。

そのような教会なのですが、もし私たちがこれを当然のこととしてしまい、何の反省もなくそこに居座ってしまったら、単なるこの世の団体と化してしまいます。六節に、「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」とあります。これを逆に言えば、このような信仰を持ち続けないならば、わたしたちは神の家ではない、教会ではないというのです。

これは私たちキリスト者にも言われていることです。「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかり持ち続けるなら、キリストに連なるものとなるのです」(⒕)と言われています。人間にとって、信仰を生涯持ち続けていることは一大事業だと言った言葉を聞いたことがあります。私たち時には、教会へ行くことが嫌になることがあります。聖書を自分の家で読んでいる方がはるかに良いと思う時があります。ですから、そのような中にあって信仰を続けられる人とは、常に戦っている人なのです。事業をしている人も、職場に勤めている人でも、そのような戦いはしています。その中にあって、信仰を守り続けるというのは一番大きな戦いだと言うのです。

たとい教会がいろいろな問題点を持っていても、その教会の中で、私たちの信仰は守られていくのです。また、守られていかなければならないほど私たちは弱い者です。だからこそ、決心して、迷わないで、神に従っていきたいのです。

最後までしっかりと確信を持ち続けることが最も大切なことだと御言葉は教えています。

 

愛澤 豊重

(菊名 2019年9月号  No.47掲載)