教会からのお知らせ
聞いたことに ヘブライ人への手紙第二章 (月報『菊名』No.46より)
「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。」と書き始めています。
現代は映像の時代であるとよく言われます。先日図書館の人と話している中で活字離れという話題が出ました。活字よりも絵が好まれ、物語や伝記なども文章ではなく絵本で、なるべくなら漫画で読みたい人が、子どもばかりでなく大人でもそうだと言っていました。教会学校本棚にはキリスト者の伝記の本が並んでいます。牧師は読んでほしいと思っていますが、おそらく子どもたちは誰も、教師も含めて読んでいないのではないかと危惧しております。礼拝についても、もっとヴィジュアル化を検討しなければならないとの声も聞かれます。現代の映像の代表はテレビとインターネットでしょう。テレビでもネットでも非常に多くの情報が流れています。ネット中毒、スマホ中毒と言われるくらいです。でも、かける時間ほどには情報が頭に残ってはいません。私の趣味は夜中ベッドの中でNHKの「ラジオ深夜便」を聞くことです。ラジオは聞くことに集中するため、どうしても深く聞こうとする傾向があります。使徒パウロは、信仰とは何よりも聞くという所から始まるのだと言っています。神の言葉を聞くことを抜きにしては始まらないのです。これは聖書の信仰を考える場合の大事なポイントです。
ヘブライ人への手紙はそれにも増して「聞いたことにいっそう注意を払わねばならない」と言っているのです。「そうでないと、押し流されてしまいます」と警告もしています。何に押し流されてしまうのか、それはこの世の力によってです。明治、大正時代に多くの文学者がキリスト教信仰に触れました。洗礼を受けた方もおります。しかし、そういう人たちの多くが信仰から離れてしまったことも知っています。それには当時の教会の対応が不十分であったと言えるでしょうが、やはりその人たちの信仰生活に問題があったのではないでしょうか。信仰が危うくなるのは、結局信仰の一番の中心、何を信じているのか、なぜ信じているのかが見えなくなってしまう時でしょう。私たちは確信をもって礼拝において神の言葉を聞いているのだと言えるでしょうか。
三節後半からのところで、この救いは主が語られ、それを聞いた弟子たちから受けたことをここではっきりと示している、と伝えています。つまり弟子たちの信仰を筆者はそのまま自分の信仰にして、それを書いているのです。だから、礼拝において聖書を読み、祈り、そこから御言葉を聞くというのは、弟子たちがイエスから直接に聞いたのと同じ所に私たちは立っているのです。それが礼拝です。そこにで主に出会うことができるのです
愛澤 豊重
(菊名 2019年8月号 No.46掲載)