教会からのお知らせ
この人を見よ ヘブライ人への手紙第一章 (月報『菊名』No.45より)
讃美歌一二一番「馬槽のなかに」は由木康牧師の詩で、誰でも知らない人がいない讃美歌です。この詩は「この人を見よ、この人こそ、人となりたる生ける神なれ」と終わっています。キリスト教の信仰とは何ですか、あなたは何を信じているのですか、聖書の中心は何ですか、と尋ねられることがあります。そのとき私たちが答えるのは「この人を見よ」とキリストを指し示すことで十分なのです。「この人こそ、人となりたる生ける神なれ」と言いうるのです。
ヘブライ人への手紙は、手紙は普通は挨拶が始めに書かれていますが、いきなり本論に入っています。しかも、いちばん重要なキリスト論について述べています。
第一に私たちの信じている神はかつても今も働いておられるひとりの神であって、その神が語られたという究極的な事実によって私たちの信仰は成り立っているのだということです。旧約聖書の時代は預言者たちによって、新約聖書の時代は御子イエスによって、神は語られました。いつの時代でも、絶えずこの世界に対して神は語り続けてこられたのです。しかし、新約の時代は「この終りの時代」と言われているように、御子を超えて啓示が進展するということはないということが明らかにされています。
私達は水曜日の祈祷会で旧約聖書をはじめから読み進めて申命記が終わろうとしていますが、それを読んで示されることは、いつも人間に先立って神が語られ、人間に何を為すべきかが命じられていることです。このような神の語りかけをしっかりと受け止め、その語りかけに対してふさわしくお応えをする、そこに信仰が生まれるのです。
第二に、「御子は、神の栄光の反映であり」と言われているように、父の栄光は、キリストの中に輝き出るまでは人間の目には見えませんでした。そのキリストが「神の本質の完全な現れ」であると言われているように、神の本質は、これをそのままに体現しているキリストを仰ぐことによってのみ知ることができるのです。
それですから、新約の時代には、神の言葉はただ預言者の口から、またイエスの口から語られた言葉ではなく、イエス・キリストの存在において現された、存在そのものが神の言葉なのです。ヨハネ福音書が「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と言っている通りです。神の言葉が人格となったのです。ですから神の言葉とはキリストのことだと言ってよいのです。ですからキリスト教信仰とは何かという質問に対して、「この人を見よ」とキリストを指し示すことで十分なのです。
愛澤 豊重
(菊名 2019年7月号 No.45掲載)