教会からのお知らせ
祈りなさい ヤコブの手紙第五章 (月報『菊名』No.44より)
ヤコブは「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」と言われます。口語訳聖書は「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。」と訳されています。この訳の方が私には自分に呼びかけられている思いがいたします。祈りの有名な言葉です。それに続けて「喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」と言っています。ヤコブは、苦しんでいるときでも喜んでいるときでも神に向き合いなさいと言っているのです。それはよく分かります。
けれども、私たちは今苦しんでいると感じているだろうか、喜んでいると感じているだろうかと考えてしまいます。周りの人を見渡しても、特別苦しんでいる人は、喜んでいる人は誰だろうかと思うと、特にはあげられないものです。そもそも人生の中でそんな苦しみとか喜びとか特別に思うことがいつも続いているわけではありません。そういう時があっても、それはひと時のことで、やがて日常に戻ってくるのが私たちの生活です。
「苦しんでいる者」という言葉を調べますと、「不機嫌」とか「不愉快」の意味も込められています。「喜んでいる人」というのは、それと反対で使われていますから「良い気分の人」「ご機嫌な人」ということでしょう。そうしますと、不愉快になることは始終あります。口喧嘩をしたとか、人から心外なことを言われたとか、このようなことは日常絶え間なくやって来ます。
また「祈れなくなった」という言葉も聞きます。一生懸命に祈ってみたが、その祈りは聞かれなかったと言って意気消沈してしまうのです。あれだけ祈ったのに、とがっかりしてしまいます。私たちは願った通りに事が進めば、ますます祈りに励むと思います。けれど、それが駄目だったと思うと挫折してしまうのです。
けれども、神のもとに行かなければ分からないことは沢山あるのです。信仰生活をすればするほど、こういう思いをすることが沢山あるでしょう。神様いて下さるなら、なんでこうなるのでしょうかと聞きたい思いは繰り返されます。
しかし、どうしても分からない、承服しかねるというものであっても、一切は神様のご配慮の中でなされていることなのです。一一節に「ヨブの忍耐」という言葉が出ています。ヨブ記には神に向かって言っている言葉が続きます。明らかにヨブは神のなさることが不愉快で堪え難いのです。しかし、それが祈りだというのです。神を神として向き合い続ける、それが祈りだと言っているのです。ヤコブは、苦しい時でも喜びの時でも、どんなことも神のところに持っていきなさいと勧めているのです。そこから神共にいますとの慰めを味わうことが出来るからです。
愛澤 豊重
(菊名 2019年6月号 No.44掲載)