教会からのお知らせ

舌を制する ヤコブの手紙第三章 (月報『菊名』No.42より)

「舌は火です」「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とヤコブは言います。ヤコブは語ることについて注意してきました。主イエスも「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(マタイ一二:三六)と言っておられました。

この言葉には戦慄を覚えざるを得ません。「あぁ、あんなこと言わなければよかった」と何度思ったことか。それも、話をしていて思わず付け加えるようにして出た言葉です。言わずもがなの言葉が口をついて出てしまったのです。あなたは自分の舌を制御できないとは、なんと人間の弱さをついていることかと思います。

また、聞いていて腹がたつ言葉に出会うこともあります。建徳的ではないのです。語る本人は、自分の思うことを語っているつもりであって、決して悪意からではないでしょう。けれども人を不快にさせるのです。

何故でしょうか。言葉は心を映し出す鏡であり、心のリトマス試験紙であると言われます。問題は私たちの心にあるのです。舌が勝手に言うのではなく、心から溢れることが言葉となるのです。心が清くないから、言葉も人を傷つけるのです。私たちは自分の思い、自分の判断、自分の欲望で行動しているのです。エデンの園で女は自分の欲望に負けて木の実を採って食べ、男にも渡したのでした。神に愛されたダビデは、誘惑を目の前にして心を制することが出来ませんでした。自分の欲望に負け、神の心をないがしろにしてしまったのです。

私たちの心を清める者があるとすれば、それは私たちの心も体も造られた御方以外にはないはずです。「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように」(詩編一九:一五)と、詩人たちは祈りました。この詩人と一緒に私たちも祈らざるを得ないでしょう。どうしてもキリストの恵みと聖霊の助けが必要なのです。

ヤコブは九節で「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」と言いました。しかしそれはあってはならないことなのです。私たちが主を仰ぎ、聖霊の絶えざる清めに与っていくときに、この罪から解放されるのです。人に為し得ないことも、神には成し得るのです。

キリストの福音は私たちを救い、義と認めて下さるので終わりではなく、私たちを御子の姿にしようと、喜ばしい自由の世界へと私たちを追いやるのです。

 

愛澤 豊重

(菊名 2019年4月号  No.42掲載)