教会からのお知らせ

まことの信仰 ヤコブの手紙第二章 (月報『菊名』No.41より)

私たちは何の疑いもなく信仰生活を送っています。その私たちに、ヤコブの手紙は「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい」と、自分の信仰は果たしてどうなのかと問いを突き付けます。自分の信仰生活は果たしてこれで良いのか、信仰があると思っていても、それは実のない殻だけのものとなってしまっているのではないか、と。

ヤコブの「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」という言葉は、新約聖書中でも物議をかもしだした言葉です。信仰か行いかという不毛な議論でした。私たちは行いによるのではなく信仰によって義と認められたと新約聖書のメッセージを理解しています。そうなのです。パウロは人が義とされるのはキリストを信じる信仰によると言っています。それは、信仰の初めに重点を置いた理解です。

それに対してヤコブは、義とされた者が生きるキリスト者としての生活に重点を置いて語っているのです。ヨハネ福音書は「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(ヨハネ一五:二)と言われ、木は実によって善し悪しが測られるのです(マタイ一二:三三)。

ある本に次のような言葉がありました。「信仰という正門を入った者は、歩くという行為によって永遠の救いという建物の入り口に来る。すべての人をキリストへと召される神の召しは、キリストへの全き服従への召しでもある。事実、キリスト者生活を要約すれば『キリストへの服従』以外の何物でもない。そしてこの服従はキリスト者の日常生活の中で具体的に示されている。」

信仰は、それが本物であるならば、必ず信仰者の中に受肉して現れるというのがヤコブの考えなのです。だから行いの伴わない信仰は、あったとしてもそれは死んだ信仰だというのです。生きて働かない信仰はその人を救うことは出来ません。聖書はいつも、あなたならどうする、と問いかけているのです。教会に立派な身なりをした人が入ってきた場合と汚らしい服装の貧しい人が入ってきた場合という例は、自分ならどうしただろうかということを考えさせます。

私たちの信仰は御言葉を聞くことによって始まります。自分の心の中を覗いたら、差別する心や狭い心、自分が何よりも大事だとする心ばかりしか見えてきません。しかしイエスを見上げ、イエスの御言葉を聞くとき、そんな私でもという心が燃え上がります。ヤコブは「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。」(一:二〇)と言っています。そのことが私にまことの信仰をもたらすのです。

 

 

愛澤 豊重

(菊名 2019年3月号  No.41掲載)