教会からのお知らせ

信仰による忍耐 ヤコブの手紙第一章 (月報『菊名』No.40より)

ヤコブの手紙の著者は主イエスの弟、主の兄弟ヤコブとされてきました。主の兄弟ヤコブは主イエスの生前にはクリスチャンではありませんでした。彼が信仰に入ったのは復活された主イエスに会った(Ⅰコリ一五:七)からでしょう。「主イエス・キリストの僕」という自己紹介は、イエスを神からのメシヤ、油注がれた人という力強い信仰の告白であり、自分はそれに全く服従をしている者だということを伝えています。

ヤコブはイエスの生前、母と兄弟たちと共に、イエスの気が変になっているという噂を聞いて取り押さえに来たことがありました(マルコ福音書三:二一)。一九節の「聞くのに早く、話すのに遅く」という言葉は昔から広く伝えられている格言です。ヤコブはそこに「また怒るのに遅いようにしなさい」と付け加えています。怒りやすい人は、感情に左右されて公正な行動ができません。ヤコブの昔の自分を顧みて言ったのではないでしょうか。自分の兄弟を人の悪口から救い出したいという、その動機は分かるにしても、怒りは良い結果を生むことはないのです。

それよりは忍耐です。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と言われます。「試練」という言葉は「試練」とも「誘惑」とも訳せる言葉です。一つの出来事は試練であると共に誘惑にもなり得るのです。神はいろいろな困難を試練として与えられます。悪魔はそれを私たちの誘惑となるように仕向けるのです。私たちを滅ぼす誘惑となるのです。私たちがそれを信仰を持って受け止めるとき、それは私たちの信仰を強める助けとなり試練となります。ですから私たちが試練に出会う時は「この上ない喜びと思いなさい」と言うのです。

その試練を通して得られるのが「忍耐」です。忍耐はじっと耐えて我慢をするという消極的な態度ではなく、どのような苦難に対しても積極的に向かって行く堅実な、確固たる力を意味しています。「英雄的忍耐」とも呼ばれた力なのです。

その力を生み出すのは信仰です。神は「御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださ」ったのです。自分の欲望にひかれて、誘惑の滅びに陥ってしまうのでなく、神の真理の御言葉によって進むことが出来る者とならせていただいたのです。そのために「悪を捨て去り」と言われるのです。私たちは受洗の際の新生の誓いとして「あなたは、これまでの悪の道から離れ、洗礼を通して、この世を支配する悪の力を退けることを望みますか」という問いの前に立たされたのです。これは教会も同じです。教会は汚れた言葉と悪意とを捨て去って、み言葉を聴く者とならなければならないのです。

 

愛澤 豊重

(菊名 2019年2月号  No.40掲載)