教会からのお知らせ
新しい天と地 ペトロの手紙Ⅱ第三章 (月報『菊名』No.39より)
わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」とペトロは書いています。初代教会は主の再臨・終末の時は近いと緊張の内に信仰生活を送っていました。初代教会の人々はこの約束のもとに信仰生活に励み、この日を待ち望みました。再臨の時、イエス・キリストの者とされることを喜びとして、主の再臨を待ち望んでいくのがキリスト教信仰です。しかし、いくら待ってもその日は来ません。信仰者の内には、その日を待たないで死んでいく者もありました。信仰から離れていく者もありました。
教会内に終末・再臨についての疑念が起こりました。ある人々は終末・再臨などは無いのだと主張しました。それに対してペトロは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」と言いました。これが再臨の遅延に対する回答でした。主の御前ではあざける者とは全く違った世界があるのです。神は時間の支配下にはおられない。神は時間を支配することができるので、御自分の思いに従って事を為すことができる。遅いとか早いということは、時間の下にある人間の判断していることにすぎません。
それからもう一つ。主は約束の実行が出来ないのではない。ただ、一人も滅びることがなく、すべての人が悔い改めに至ることを望み、あなた方のために忍耐しておられるのですということ。神がその約束をただちに実行されるとしたなら、すべての者が滅びる以外に道はありません。しかし神は忍耐深くあられ、悔い改めるように待っておられる。神がすべての人々が救われるように望んでおられるのは確実なことであり、約束が反故になってしまったわけではないと、と言うのです。
昨日も今日も何も変わらないではないか、ということが信仰を保つことの障害となっていることが私達にもあります。だから少しくらい信仰しなくても、なにも変わりはないではないか、と言って信仰生活がだらけていくのです。しかし、神の御計画は段階的に進むのではありません。突然現れてくるものなのです。「主の日は盗人のようにやって来ます」とペトロは教えています。だから私たちは、その時に向かって、きめられた道を走り通し、信仰を守り通しましょう。主は私たちがどのように生きたかを知っておられます。私たちはキリストの救いの恵みを受けています。けれども、赦されるからと言って、どんなことをしても良いというわけではありません。私たちは神の前に、きずや汚れのない生活を送ることこそ、救いへの感謝の生活です。今日も御心にかなう生活をしていきましょう。
愛澤 豊重
(菊名 2019年1月号 No.39掲載)