教会からのお知らせ

尊くすばらしい約束 ペトロの手紙Ⅱ第一章 (月報『菊名』No.37より)

ペトロは「あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」(四)と言っています。この徳目標にあることを「力を尽くして・・・加えなさい」と私たちは命じられているのです。もし私が努力をしてそれらを身に着けなければいけないと言われているのでしたら、「神さま、ごめんなさい。とても無理です」と謝るほかありません。どう見ても私はそんな理想的な人にはなれそうにもありません。

けれども私たちは、キリストを信じる信仰によって救われたのでした。行いが良いからというのでなく、信じただけで神の恵みのゆえに救われたのです。しかも私たちは「尊く素晴らしい約束」(四)をいただいているのです。それだけにこの「約束」に基づいて、私たちは生活の中で神さまの栄光を現していくようにと勧められているのです。それが「加えなさい」という言葉です。「加える」という言葉は「備える」という意味も持っています。そうすると、主を信じる者はこれらのことを自分の身に備えなさいという意味にもなります。

でもなぜ、ここでペトロはそのように言うのでしょうか。

確かに私たちは約束が与えられました。ですがパウロもこう言っています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(フィリピ三:一二)。そのように信じた人はみな、神の子としての性質が与えられているのです。ですから、イエス・キリストの形なるまで変えられていくのです。しかしそれは放っておいても自然とそうなるというのではありません。あらゆる努力をして、熱心に、追い求めなければならないことなのです。

いつまでたっても自分は信仰が未熟でと嘆く人がいます。しかし、どんなことでも努力なしでは成長することはありません。絶えず目を覚まして祈っていく、求めていくということがなければ私たちの信仰が深まっていくということはないのです。私は牧師生活四〇年がたちました。今年度の初めにそのことを覚えて、自分は何が出来て、なにが出来ていなかったかを反省して意識して出発することにしました。そういう備えをしなければ、ただ漫然とすごしてしまい、信仰の力は出てこなくなってしまうからです。「怠惰で実を結ばない者」になる恐れを感じたからです。ペトロの「いつも、これらのことをあなた方に思い出させたいのです」(一二)という言葉を聞く人になりたいと思っています。

 

愛澤 豊重

(菊名 2018年11月号  No.37掲載)