教会からのお知らせ

恵みの管理者 ペトロの手紙Ⅰ第四章 (月報『菊名』No.35より)

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」とペトロは言っています。キリスト教の信仰は、それを信じる者たちの生き方を大きく変えて、それまでしてきた生活とは違った生活へと導くものだと言っているのです。このような変化が自分の生活にも起こっているかどうか、自分に確かめましょう。もし、キリスト者になっても何の変化も起きていないなら、私たちはこの聖書の言葉を学び直さねばならないでしょう。

私たちは皆それぞれ神の賜物を授かっていると知っています。そのように生きる力が聖霊によって与えられていることを知っています。私たちはその賜物の善き管理者となることが求められているだけなのです。ですから、やれば出来るのです。私の力によってではなく、神の力によって出来るのです。

それまでの生活は好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝にまみれていたと断罪しています。しかし当時このように罪だと言われていることは、その時代だけの限られていた事柄でしょうか。Ⅰコリント六章九~一〇節やガラテヤ五章一九節から記されている悪徳表も同じです。ほとんどは現在でも社会で見受けられていることです。明治になって入ってきた宣教師たちは禁酒禁煙ということを信仰生活のスローガンのように伝えました。それは酒によって家庭を破滅させてしまうようなことが社会のあっちにもこっちにも見受けられる社会を宣教師が見て、その人を立ち直らせることに禁酒は絶対に欠くことが出来なかったからだと聞いたことがあります。

ですからキリスト教信仰は、周囲の未信者とは、かつての友人たちの生き方とは、それまでの社会常識とは異なる生き方へと導くものでした。ただしその結果、彼らは信仰のゆえにこの世で様々な苦しみに遭うことも言っています。社会そのものが造り替えられるまでは、キリスト者はキリストに向けられたのと同様の敵意が自分たちに向けられるものと予期すべきなのです。しかし、その社会が造り替えられる時は差し迫っているのだと著者は確信しています。

その到来しつつある新しい時は、今、キリスト者の交わりにおいてすでに実現しています。そしてキリスト者がそこで振る舞っている姿は、神の国の予兆なのです。それは互いに愛し合うことであり、もてなしあうことであり、賜物を生かして仕えあう姿です。
私たちは洗礼によって新しい命に入れられたのです。それだからこそ、新しい生き方へと私たちの現実の生活も変わるのです。それは社会をも変える力なのです。

 

愛澤 豊重

(菊名 2018年9月号  No.35掲載)