教会からのお知らせ
罪を償ういけにえ ヨハネの手紙Ⅰ第二章 (月報『菊名』No.26より)
全世界の罪を償ういけにえです」とイエス・キリストのことを言っています。私たちは、私たちの罪の赦しのためにイエスさまが十字架にかけられたということを信じています。十字架に磔になり、血を流されたことによって、私たちの罪が赦されたのです。そう理屈では理解しているのですが、なぜ「いけにえ」がなされなければならないのか、なぜ「血」によって清められるのか、心の中で、感情ではしっくりとはしていませんでした。
前に、浄土真宗の僧侶から改宗して牧師となった友人と話したときに記憶に残っている話がありました、それは、偉い僧侶が、イエスの死と釈迦の死を比べて、どれほど釈迦の死が大往生であったかを話されたそうです。確かにイエスの死は、恐れおののきながら、うめきながら、十字架上で槍で突かれるという痛ましい最期であって、すべてを悟って静かに死についたという様とは程遠い姿でありました。なぜ主イエスはそのようにして死ななければならなかったのでしょうか。
今、水曜日の聖書研究会ではレビ記を読み進めています。レビ記は律法の規定が細かく記されている書で、いままであまり気が進まず、斜め読みにしていた所でした。しかし一章一章、一節ずつ丹念に読んでいくと、今まで見えなかったところが見えてくる思いがしました。「あなたたちは聖なる者となりなさい」という神の命令は、神ご自身が聖なる者であるから、罪深い民がどのようにすればその神に近づき、神との交わりを得ることが出来るのかとの招きの言葉でありました。その具体的な方法を記してあるのが律法なのでした。
その中心となるのが祭儀でした。祭儀はいけにえの動物が献げられ、その血が振りかけられます。なぜ祭儀で「血」が振りかけられなければならないのでしょうか。それは「生き物の命は血の中にある」(レビ一七:一一)と神さまが厳命されたからでした。民は肉を食べることは出来ても、命である血は神さまにお返ししなければならない。その上、「血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」と命じられていました。ですから、罪人の命の代わりに動物の命が神に献げられることによって、罪人である民が神さまに前に立つことが許されたのです。
その祭儀の完成が主イエスの十字架でした。神の御子イエスが全人類の罪を償う為のいけにえとして血を流されたのです。血を流されなければいけなかったのです。その贖いによって私たちは神の民、神の子として生きることを許されたのです。私たちはその恵みによって生きていくのです。
愛澤 豊重
(菊名 2017年11月号 No.26掲載)