教会からのお知らせ

目を覚まそう ヨハネの黙示録第十六章(月報『菊名』No.18より)

最後の災いが始まりました。神の大きな声が七人の天使に告げます。「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい」。この命令によって、七人の天使が持つ、七つの金の鉢に盛られた神の怒りが次々にぶちまけられます。第一の鉢は地上に、第二は海に、第三は川と水の源に、第四は太陽に、第五は獣の王座に、第六はユーフラテス川に、最後の第七は空中に注がれました。その災いは八章から伝えられましたラッパの災いと似ているものでした。しかし、そこでの「三分の一」という制限は示されてはいません。全面的、無制約な災いが、神に従わない、獣に従っている人間に対して直撃しています。

しかし、その苦痛の中でも人間は「神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった」のです。また「苦痛とはれ物のゆえに、天の神を冒涜

し、その行いを悔い改めようとはしなかった」、「人々は雹の害を受けたので、神を冒涜した」のです。人間は、審判が下らなければ、神などはいないとうそぶきます。よしんばいたとしても神などは恐れるに足らないと侮ります。審判が制限された形で少し下ると、まだまだ負けるものかと抵抗します。究極的な審判が下ると、なぜこのような害を与えるのかと神を冒涜します。手のつけようのない人間の姿が示されています。

汚れた三つの霊は全世界の王たちをけしかけて、反キリスト勢力の大結集を試みます。神の大いなる日の審判を打ち破るための戦いに備えて、ハルマゲドンに頑なな王たちを集めます。

そのとき、いきなり神の声が伝えられます。「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである」。主御自身の警告の声なのです。この最終決戦ともいうべき戦いの主導権は、神に対抗する勢力にあるのではなく、実にこの天上のキリストの側にあるのだと言いたいのでしょうか。「目を覚まして」キリストに信頼し、「衣を身に着けて」身を整えて信仰を守り続ける信徒こそ幸いなのだというのです。

衣というのは、言うまでもなくキリストの義の衣です。パウロがエフェソの信徒への手紙六章に記している「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」という警告の言葉も聞こえてくるようです。キリストと反キリスト、神とサタン、善と悪が最後的に大決戦に及び、決着がつけられるときが来るのです。ですから私たちは、圧倒的に神の勝利がもたらされるということを目指して、それぞれの日々を信仰に堅く立って戦い続けたいと思うのです。

 

愛澤 豊重

(菊名 2017年3月号  No.18掲載)