教会からのお知らせ
四二か月の間 ヨハネの黙示録第一一章
「それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。」という言葉から始まります。物差しで「神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ」と命じます。そして「神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。」というのです。これはどういうことでしょうか。エルサレム神殿の外庭は「異邦人の庭」と呼ばれ、異民族の人たちも入ることが出来ました。しかし、そこは測ることから除外しなさいということは、端的に言って、そこは聖なる場所とは認めない、従って救いに与ることは出来ない、ということになります。
ところで、聖都エルサレムは七〇年のエルサレム陥落によって廃墟と化していることをヨハネは承知しております。それ故にこれは象徴的に理解され、「主と小羊とが都の神殿」(二一:二二)であると言います。それはキリスト教会のことであり、キリスト者の群れと理解されたのです。そして、命じられた「測る」ことは、このキリスト者が、霊と真とをもって礼拝するクリスチャンかどうかを測りなさいと言うのです。形式的、名目的なクリスチャンは、一応教会には接しているが、世俗的で、結局は外庭の「異邦人」でしかないのです。パウロもⅠコリント三:一~三でそのような人のことを言っています。
そのように本当のクリスチャンであるかどうかを調べなさいというのは、本当のクリスチャンを神が守られるためなのです。事実、神に敵対している人々が四二か月の間、猛烈な迫害を加えると予言しています。しかし、彼らの信仰はその間も神の守りの中にあるのです。
その艱難の時代は四二か月だと言います。四二か月という時は三年半です。それは長いようであっても限られた時間です。しばらくの間ということです。いろいろと反教会の冒涜的業があったとしても、それがいつまで続くのだろうかと嘆くようでも、心を悩ませない方がいいのです。それは四二か月のことなのだというのです。私たちは神の支配を信じることができるのです。
私たちは自分が主イエス・キリストに従っていることが大切なのです。まわりのあれこれに目を奪われるということは、そこに神がおられないということです。どんなに巧妙に立ち回っていても、神の前に正しい歩みをしていない者の天下は四二か月しかないのです。一見それが正しいように見えてまわりを巻き込もうとしても、それがどんなに栄華を誇ろうとしてもです。人がどのようであろうとも、悪を為す者のゆえに心を悩ませないで、ただ、自分が神の前に道を正しくしていくことに一生懸命になることが大切なのです。
愛澤 豊重
(菊名 2016年10月号 No.13掲載)