教会からのお知らせ

人間の頑なさ  ヨハネの黙示録第九章

 第九章では第五の天使のラッパと第六の天使のラッパによる裁きが記されています。これまでの四つは自然への破壊でした。地を焼き、木を焼き、海が沸返り、川が汚染され、天体が光を失いました。人間はその傍杖を食う形で被害を受けたのです。しかし第五、第六の災いは直接人間に対して攻撃が向けられました。

 第五の災いは、底なしの淵の穴から上ってきたいなごの害の報告です。このいなごは、サソリと同じような仕方で人間に害をくわえる力を持つものでした。いなごは「地や草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい」と命じられていました。いなごは底なしの淵の使いを王としていました。底なしの淵の王の役割は、下界に送られてきた者に対する罰の執行の管理です。それゆえ、いなごが人々を刺す苦痛は、滅びに定められた人々に与えられる罰の一つに他ならないことが暗示されています。

 第六の災いは、四人の天使が解き放たれ、彼らによって人間の三分の一を殺させることでした。第五の災いが人間を苦しめることに限られていたことに対し、第六は殺すことが命令されており、明らかに災害の度合いが一段高まったものでした。これを実行するための騎兵は二億。彼らの乗る馬は、口から火と煙と硫黄を吐いており、この三つによって人間の三分の一が殺されました。

 ヨハネは、その恐ろしい光景を幻に見て戦慄する中で、殺されずに残った人々がどのような反応をしたのかを次に記しています。それは人間の頑なさの根強さを感じさせる光景でした。これほどの災いを受けても、生き残った人たちはそれまでの生活態度を改めることはせず、台風一過とばかりに偶像礼拝を続け、殺人を繰り返し、まじないや不品行、盗みを続けていました。この人たちは災害に直面して、神の力強さを体験しました。それにもかかわらず、頼むに足らない偶像にすがることを止めませんでした。彼らは愛を知らず、殺人を繰り返していました。神の憐みも知らない。だから、まじないや魔術を用いて自らの心を慰めていたのでした。

 ローマ署一:二八でパウロは言います。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」災いにあっても偶像に頼ることを悔い改めず、不法な行為も悔い改めなかった人間の姿を黙示録の幻は見せているのです。そのような人間世界に対して主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と声を響かせているのです。

 

愛澤 豊重

(菊名 2016年8月号  No.11掲載)