教会からのお知らせ
封印が開かれる ヨハネの黙示録 第六章
五章でヨハネは神の右手に握られた巻物を見ました。それは七つの封印で封じられていて、ただ屠られたような小羊だけが、巻物を受け取り、開くことができました。「屠られたような小羊」すなわちイエス・キリストです。「屠られたような」とは十字架の死を意味しています。キリストの死が、キリストの天上界での即位だったのです。終末の歴史は巻物が開かれないと進行しませんでした。今、キリストの手によって封が解かれ、終末の歴史が始まりました。その開封によって展開されるのは、なんとも恐ろしい審判の世界でした。ヨハネ黙示録によれば、小羊の即位で終末の歴史が出発し、新しいエルサレムの出現で終末の完成がなされるのです。
小羊が最初の封印を開くと、玉座の周りに侍っていた四つの生き物の一つが大声で「出て来い」と叫ぶと白い馬が騎士を乗せて現れました。二番目の封印では赤い馬、三番目では黒い馬、四番目には青白い馬が現れました。白い馬は戦争を、赤い馬は殺戮を、黒い馬は飢饉を、青白い馬は死の到来を象徴していました。この一つ一つが四つの生き物の「出て来い」という掛け声とともに、恐ろしい災害を地上にもたらす登場でした。
ところが第五の開封の場合はこれと違いました。祭壇の下に殉教者の魂を見たのです。彼らは「いつまで裁きを行わないのですか」と叫んでいました。すると彼らに白い衣が与えられ、「殉教者の数が満ちるまで、なお暫く静かに待て」との答えが聞かれました。キリスト者はまだまだ苦難、迫害に会う。しかし、神の定められた時はもう少しの間だ。しばし待てと言われます。そして第六の封印が解かれました。大地震が起こり、天体に大異変が起こったという光景を見ました。最後の日、すべてのものは皆恐怖のどん底に落とされます。裁きはすべての者に及びます。
キリスト教の神はすべての人に救いを与える愛の神ではなかったのかと問われるかもしれません。ハイデルベルク信仰問答問一一は次のように言っています。「神の義は、神の至高の尊厳に対して犯される罪が、同じく最高の、すなわち永遠の刑罰をもって、体と魂とにおいて罰せられることを要求するのです。」
かつて一六世紀に渡来したキリシタンに対して、日本の仏僧の発した非難は、「我らの宗教では、みな極楽浄土へ行けるのに、キリシタン宗では地獄に堕ちる者もある、と言う。だから、我々の宗教の方が有難い。我々の宗教の方がこころよい」というものだったそうです。しかし、聖にして義なる神の栄光は、信じ従う者の救いにあらわされるのと同様、不従順な者らの処罰によっても表されるのです。
愛澤 豊重
(菊名 2016年5月号 No.8掲載)