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小羊への礼拝 ヨハネの黙示録 第五章

 初めに七つの封印で封じられている巻物が出てきます。御父の右手に握られ、字が表にも裏にも書かれている巻物は、しかし七つの封印で閉じられていました。人間の知恵や力をもってしてはとうてい読むことができない。しかも力強い天使でさえも開くにふさわしいものではないのです。書かれている神の意志は、きっと四:一で告げられた「この後必ず起こること」でありましょう。それが目の前にあるのにと、ヨハネは激しく泣いていました。そのヨハネに長老は、ただ一人の御方がその巻物を開くことができると告げます。

 ただ一人巻物を開く方がおられる。それは「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ」であるキリストであると伝えられます。長老は「泣くな。見よ。」といいます。そこでヨハネが見たのは「屠られたような小羊」でした。獅子といわれていたのに、現れたのは小羊でした。しかも「屠られた」犠牲となった小羊でした。最も弱く見えるこの小羊こそ勇猛な獅子でした。しかも「七つの角」と「七つの目」を持っています。「七つ」は完全数、「角」は「力」、「目」は「知恵」を表していますから、完全な力、完全な知恵を持つ、すなわち全知全能であることを表しています。

 その小羊は玉座にすたすたと歩み寄り、御父の手よりあっという間に巻物を受け取ります。その瞬間、玉座を取り囲む四つの生き物と二四人の長老は小羊の前にひれ伏します。近づくのもためらわれる巻物をごく自然に受け取ることのできる御方、その方は玉座に座られる御父と完全に同格でなければなりません。それですから、この小羊は父なる神と同じく拝礼されるにふさわしい方であることを示しています。長老は「竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って」ひれ伏しました。「この香は聖なる者たちの祈り」だったのです。竪琴をもって賛美の備えをし、聖徒の祈りをささげての礼拝です。

 素晴らしいことに、聖徒の祈りとは私たちの祈りに他なりません。神の前にたかれる香は、その香が高価な物か安価な物かは問題ではありません。香そのものがたかれることが神の喜ばれることなのです。いやむしろ、自信のない、貧しくつたない私たちの祈りを、小羊の前で金の鉢から立ちのぼる薫り高い香としてささげられているのです。小羊は、親たちが子どもの片言を聞いて喜ぶのと同じように、私たちが祈る祈りそのものを喜ばれるのです。ですから私たちは、何よりもまず絶えることのない香をたくことが大切なのです。私たちが今日もささげる、何を言っているのか分からない子どもの片言のようなつたない祈りは、しかし、金の鉢からたちのぼる香として天に届けられているのです。

 

愛澤 豊重

(菊名 2016年4月号  No.7掲載)