教会からのお知らせ

なまぬるい信仰 ヨハネの黙示録第三章③

 主に命じられて送ったヨハネの七つの教会への手紙の最後の手紙です。ラオディキア教会です。

 このラオディキアの町は海と内陸部をつなぐ交通の要所にあったところから商業都市、金融都市として栄え、織物、絨毯、薬の生産地で裕福な町でした。

 ラオディキア教会に対してイエスが指摘したことは辛辣でした。すぐ前のフィラデルフィア教会には叱責非難されることは一つもありませんでした。しかし、ラオディキア教会は一つも称賛されることはありませんでした。同じキリスト教会と呼ばれ、隣り合っていて、同じ十字架を掲げ、賛美を歌いながら、です。教会だからどこも同じではなかったのです。人の目には力の弱い教会だと映る教会が神からは称賛され、人の目に映る姿が大きく豊かに見える教会が、神には不快なものとしてありました。

 「あなたは、冷たくも熱くもない、むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」と言われてしまいました。熱ければ熱いなりの期待があり、冷たければ冷たいなりの救済への対処方法がある。けれども中途半端のなまぬるさはどうしようもないと言われるのです。夏の暑い日に、冷たい水か熱いお茶をだされたら気持ちのいいものです。しかし、なまぬるい日なた水を口にしたらどうでしょうか。ウェッ、ナンダコレハと吐き出してしまうでしょう。吐き気がします、不快なのです。

 そういう教会は実はどんな姿だったのでしょうか。「わたしは金持ちだ、満ち足りている。何一つ必要な物はない」という思いが充満していました。しかし、神の目から見た真実は違っていました。健康で自覚症状がないその体に、神の目は重体である患部を見出していました。実は惨めで、哀れで、貧しくて、目の見えない裸であるという診断書が書かれたのです。ラオディキアの教会は地上では裕福で立派でしたが、その内実は水ぶくれの病人であったのです。

 そのラオディキア教会に主は「なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている」と言われます。微妙な言葉です。「吐き出す」のではなく「吐き出そうとしている」のです。「そうとしている」とは、最後的な決定がまだ為されてはいないのです。

 主はそこに救いのみ手を用意されています。教会に勧めの言葉が語られます。「金を」「白い衣を」「目薬を」買うがよいと勧められました。しかもどこからか探してきなさいというのではなく、「私から買うがよい」と、私がそれを用意しているから、と告げておられるのです。主は、私どもに本当に必要な物をすでに用意されているのです。吐き出される前に、主から買い求めたいと思います。

 

愛澤 豊重

(菊名 2016年2月号  No.5掲載)